ラウンダバウト

英語を教えています。自分の授業改善のためだったり、好きなモノ、コトをつづっていきます

補習授業での(自分への)モヤモヤ

 今高校3年生の夏の補習を担当しています。私にとっては、現任校に異動して初めての進学のための?英語指導ですが、悪戦苦闘していて(自分で納得できる形にとうていなっていなくて)、生徒にも非常に申し訳なく思います。

 「こうじゃないんだよな」「教えていていつもの『自分も楽しい』がないぞ?」と何かずっとモヤモヤしていたものがありました。その霧を晴らしてくださったのは、先日の研修での講師の中学校の先生の授業であり、その映像の中の生徒の姿でした。失礼を承知で書けば、私には「日本語でやり取りしているように軽やかで、自然な流れで、誰かが言葉を選んでいても、嫌な沈黙の空気にならない」生徒が安心して発言できる授業に見えました。また、そのムードを作り出すためには、色々な配慮・苦労があったのだと思います。あの空気感は学部時代から今もお世話になっている、奥住桂先生(埼玉学園大学)の中学校在職時の授業を思い起こさせるもので、それは私にとっては原点でもありました。

 定時制で私の教員生活はスタートし、これまでの授業では安心感・達成感・伸長感、何より、英語でコミュニケーションすることの楽しさ、できること(言いたい、言えること)が増えること、そしてそれが伝わることの嬉しさ、もしくは世界が広がるような感じ、メガネやコンタクトをした時の、これまでに見えていたはずのものが、再び色鮮やかに輪郭を伴って見えるような感覚を体感してもらえたら、という思いで授業をしてきたつもりでしたが、先ほどの補習ではそんなことはほとんどしていなかったことに気づきました。(せめてできたことと言えば、20ある文章の中からこれは中身が面白いぞという物を選び、この順番でやると英語に対して気づきが増えるのではという順番で扱ったくらいです。)「それが進学補習でしょ」と言われればそれまでですが、本来なら高校3年生という、1番できることが多く、将来への不安も多く、誰かと話したく(相談したく)なったり、英文や小論文などを読んで身近な世界や、外への興味も一層増している時期に、入試問題を解くためだけにやっているような英語の授業はなんて「豊かさ」とはかけ離れているのだろうと思います。

 2学期もいわゆる「過去問」や「予想問題」を使った授業が待ち構えています。もちろんですが、ブロークンな英語でもコミュニケーションすることが大切だとか、そういうことを言いたいのではありません。力をつけながら、今だからこそできる、その教室のメンバーだからこそできる「豊かな学び」というのを探っていきたいと思います。それより「入試問題が解けるようになりたい」という生徒の声が聞こえてきそうですが、研修の講師の先生と、相談にのってくださったanf先生のおかげで、

両立できるのでは?両立させるには?

というマインドになってきた気がします。ようやく僕の夏休みの宿題?にとりかかれそうです(笑)

*そういう研修を企画してくださったセンターの方にもここで感謝申し上げます。